今日は、昨年亡くなった小百合ちゃんの「命日祭」でミサに参加させていただきました。
心のこもった、よいミサでした。
個人的に、衝撃的(ちょっとおおげさ)だったことが一つ。
我が家の宗派は浄土真宗ですが、通っていた中学校で毎朝礼拝があり、また週に一度、聖書の時間があったので、聖書についての勉強もしていました。
で、今日のミサでは「マタイによる福音書」第6章の有名な部分が朗読されました。第6章はほとんど暗記していたところなのですが、今回の朗読は私が知っているものと訳が違ったよう。
その最後のところ「あすのことを思い煩ってはならない。あすのことはあす思い煩えばよい。」
そう聞いて、びっくり。えっ、そうなん?
私は「あすのことを思い煩うな。あすのことは、あす自身が思い煩うであろう」と覚えていたからです。「あすのことは、あす自身がおもいわずらう」という言い回しが中学生の時、とても気に入って聖書に赤線ひいていたほど。
「あすのことはあす煩う」と「あすのことはあす自身が煩う」
「一日の苦労は、その日一日で充分」という意味合いにかわりはないのだけれど、この部分だけみれば、全然ちがう。
小百合ちゃんの闘病中も、いろいろと心配がつのったけれど、時々この言葉を思い出していたので。(苦笑)
それにしても、訳によって、心の持ちよう、微妙に変わるよなぁ....
何が言いたいかって、そんな屁理屈のようなことをニコニコしながら聞いて、ナイスな発言をしてくれる小百合ちゃんが今ここにはいないんだなーと思った時、なんともいえない寂しさがこみ上げてきた、ということです。