紙恭輔→木琴研究会→富士山!
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本番2日前、オーケストラのみなさんにとっては「木琴、なにそれ?、紙恭輔、誰それ?」という感じでしたが(笑)徐々に馴染み、本番は木琴にも楽曲にも好意を持って演奏してくださったように感じました。
指揮者の山下一史さんには、丁寧に練習をしていただき、感謝!でした。
2005年、この曲を演奏するために平岡養一の木琴を借りなかったら、現在の「木琴奏者」としての自分はいなかったわけで、そんなことを考えながらの、大変感慨深い本番となりました。
静岡交響楽団のみなさん、聴きにきてくださったお客さま、ありがとうございました!
マエストロと記念撮影。私の右側は、静響の専務理事宮澤さんとヒラサオフィスの平佐さん。
で、「紙恭輔の木琴協奏曲、何それ?」という方のために。
当日のプログラム用に書いた曲目解説を転載しておきます。
紙恭輔『木琴協奏曲』のスコアには、「昭和19年4月10日、於東京麻布」と作曲者のサインがある。まさしく、日本で最初に作曲された打楽器のための協奏曲といえるだろう。翌11日にNHKで放送初演されたというデータがあるが詳細は定かでない。手元に、同年4月22日、日比谷公会堂で開催された「紙恭輔帰還陣中作品発表会」のプログラムがある。ここでは、作曲者自身の指揮、東京交響楽団で『交響詩「廟祭り」』『交響組曲「ボルネオ」』と共に、本作が演奏された。
広島県出身の紙恭輔(1902〜1981)は、映画館の楽士として、またN響の前身・新交響楽団でコントラバスを弾く一方、作・編曲、指揮、サックスもこなし、黎明期の日本ジャズ界で活躍した。映画・テレビ音楽にも関わったジャズマンとしてのイメージの強い紙だが、本作は戦時統制の中、ジャズ色を排除し「クラシック」に徹して作曲したと思われる。
ソロを務めたは、木琴の巨匠・平岡養一(1907〜1981)。1930年、単独渡米。NBCと専属契約を結び、約11年間日曜を除く毎朝の番組で木琴を奏で人気者となる。開戦後、帰国を余儀なくされ、戦中・戦後の20年間日本国内で、1963年以降は日米を股にかけて演奏活動を行った。
本日使用する楽器は、アメリカ・シカゴのディーガン社、1935年製「ディーガン・アーティスト・スペシャル・ザイロフォン」。平岡が1935年に4オクターブのNo.264を購入。1963年に低音部7つの鍵盤を付け足して4.5オクターブ、No.266型に改造、晩年まで愛用した。2003年オーケストラニッポニカが本作を蘇演した際、アメリカから日本に運ばれ、その後2005年に通崎が譲り受けて使用している。
第1楽章
ハ長調、4分の2拍子、アレグロ。明快な和声とリズムを奏するオーケストラと、軽やかにかけめぐる木琴の走句があざやかな対比をつくる。
第2楽章
イ長調、8分の3拍子、ラルゲット。情感豊かな木琴のトレモロがあたたかく響く。中間部はマズルカ風の愛らしい舞曲調。小津安二郎の映画を思わせる風情がある。
第3楽章
ハ長調、4分の4拍子、アレグロ・ヴィーヴォ。冒頭の主題はハ長調のなかに一瞬イ長調が挿入される。その後も場面が切り替わるように転調を繰り返してゆく。木琴とオーケストラが協調してすすむ、スラブ風舞曲のようなロンド楽章。快活だが、おだやかで平和な気分に満ちたフィナーレ。 (通崎睦美)
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今回は、めずらしい曲の演奏ということで「木琴研究会」会員私をのぞいて全4名のうち3名が聴きにきてくれました。野田美佳さん帯広から、木村百合香さん神戸から、飯野晶子さん東京から!
美佳さんと百合香ちゃんは、ゲネプロからつきあってバランスも聴いてくれて助かりました!みなさんお片付けまで手伝ってくれました。
いい仲間です!ありがとう。
そこへ「木琴デイズ」と「1935」を持って飛び込んできたのが、東京藝大院卒の亀井博子さん。
これから木琴を購入して練習したい!という彼女の熱意をきき、その場で「木琴研究会」入会面接合格(笑)ということで仲間になりました!
で、終演後は、聴きに来てくれた両親、姉夫婦と共に、前夜同じく入会された地元のマリンバ奏者、江村梨恵子さんの案内で、日本平へ!
感動的に素晴らしい富士山が見えました。
富士山をバックに、新しい会員と共に(笑)
その後、家族でお寿司や、こんなものを堪能。
かんぱちのかま焼きです!
今日は、三保の松原で、また違った富士山を楽しみました。
おかげさまで、充実の静岡4日間でした!
次の2週間は猛烈に忙しくなりますが、頑張ります!